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アウシュビッツ収容所を中谷さんのガイドで見てきた〜現場編①〜

こんにちは!

前回は準備編ということで、中谷さんのガイドに予約して、少し予習したところまで書きました。今回は当日のことを書きます!

 

resa96.hatenablog.jp

バスでアウシュビッツに行く

クラクフからアウシュビッツまではバスで1時間半ほどで着きます。中谷さんからのメールにはタクシーやマイクロバスを中谷さんが手配することもできますとありましたが、私はもちろんのこと1番安いバスで行きます。

ガイドは9時からで、中谷さんとはアウシュビッツのエントランスで8時50分に待ち合わせでした。なので7時10分のバスに乗りました。

他の人のブログを見たら、チケットは前日に買っておくべきだと書いてありましたが、指定席ではないので当日でも大丈夫です。私は6時45分ごろについて、5分後くらいにバスが来てたのでバスの中で運転手さんからチケットを買いました。ポーランド人にアウシュビッツといっても通じないので、「オシフィエンチム」といったほうがいいという情報をみましたが、運転手さんから「アウシュビッツ?」と聞いてくれたのでアウシュビッツで分かってくれそうです!私の時はカードを使えました。ちなみに15ズオチです。

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バスに揺られること約1時間半。ようやくオシフィエンチムに到着!!!

写真を撮り忘れましたが、バスを降りるとエントランスのレンガ造りの建物が見えるのでそこに向かいます。近くには荷物を預けるところがあります。A4サイズ以上の荷物は持ち込めないので、それより大きい荷物はあずけなければいけません。

メインのレンガ造りの建物の中にはお土産屋さん、郵便局、両替所(レートはめちゃくちゃ悪い)、トイレ(有料)がありました。その建物の前で中谷さんと待ち合わせです…!

 

 

中谷さんのガイドスタート!

中谷さんともう一人の参加者のお兄さんと合流し、中に入ります。普段は少なくても10人ほどは集まるそうですが、今回は2人とかなりのレアケースだったみたいです。人数が多くなると、中谷さんがマイクをつけて参加者はイヤホンからガイドを聞く形になるみたいです。

空港のような荷物チェックを通り抜け、少し歩くと、もうアウシュビッツ強制収容所のなかです。ここから中谷さんのガイドが始まります。


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私が行ったのは1月の半ばだったので、雪が積もってました。気温は-3度くらい。私たちはもこもこに着込んでいるから何とかなりますが、当時の収容されていた人は間違いなくもっと薄着だったので、寒さが原因で亡くなった人もたくさんいるそうです。

 

「働けば自由になる」と書かれた門


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これがあの有名な門です。

ドイツ語で「Arbeit macht frei」

英語にすると「Work makes free」で、日本語では「働けば自由になる」と訳されることが多いです。もちろんそんなことはなく、ここで収容された人は毎日12時間以上働かされた末に、凍死、過労死、チフスに感染、弱ってガス室へ…など決して自由が待っていることはありませんでした。

Arbeit(仕事)のBがひっくり返っていることはあまりにも有名ですね。SS(ナチスの親衛隊)に対するささやかな抵抗といわれたりしてますが、どうだったのかはわかりません。

 

中に入るとレンガ造りの建物がたくさん見えます。行ったら、怖いというかもっと感じるものがあるのかなと思ってましたが、解説を聞く前は ”ただのレンガ造りの建物” がきれいに並んでいるだけでした。

 

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そんなことを言っていられたのは最初の5分くらいでした。

 

第5棟の展示物

いくつかの建物は博物館として、中に色々なものが展示されています。いくつか写真を撮ったので紹介していきたいと思います。

 
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ガス室で使われた殺虫剤・チクロンBの空き缶です。

ガス室の天井には小さな穴が空いていて、そこにこの殺虫剤が投げ込まれます。人を殺すのに殺虫剤が使われていました。ナチスにとって、ユダヤ人は人ではなく害虫と同じレベルだったようです。そうじゃなきゃ、こんな残酷なこと出来ないですよね。

 


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これは収容された人がもってきたお皿たち。ナチスが連れてきたユダヤ人が持っていた荷物の中に入っていたものです。ナチスユダヤ人に東に移住するから引っ越しの準備をしろと言ったので、自分が持っている1番いい鞄に大切なものを持ってこれるだけ詰め込んできたんだろうなぁと思います。中谷さんがいうには、子供を安心させるためにいつも使っているものを持ってきたんだろうとのことです。

 

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これがさっき言った鞄たち。多くのトランクには持ち主の名前と住所が書いてあります。自分のもとに戻ってくるように持ち主が自分自身で書いたと思われますが、本人が開けることはありませんでした。収容所に着いて、現地の管理している人たちに開けられて、使えそうなものだけとってあとはゴミです。処分しきれなかったものがアウシュビッツが解放されたあとに発見されました。


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大量の靴です。もう70年以上前のものなのでかなり古くなって色は変わってしまっていますが、収容されていたユダヤ人にとって1番いい靴だったはずだと中谷さんは言ってました。1つだけ靴をもってけるとしたら1番いいお気に入りの靴を履いていくでしょう。

 

あと刈り取られた髪の毛も展示してあります。髪の毛から作られたカーペットも置いてありました。使い切らなかったものが残っています。遺体の一部なので写真は撮れないし、いざ目の前にすると何も言葉が出てこなくなります。先ほどと同じように70年以上たっているので、色はかなり変わっています。全体的にくすんだ黒色です。ヨーロッパの人なので金髪、茶髪、赤毛、黒髪…と色んな色だったと思いますが、時間が経つと全部同じになってしまいます。

 

70年でこんなに変わり果てて、100年後も残っているのかなとふと思いました。私が小学生の時、戦争を経験したおじいさんが学校に来て当時のお話をしてくれました。でも、今は戦争を体験した人で元気な人はかなり少なくなっていて、そのうち直接話を聞けることはなくなります。それと同じようなことで、時がたつ中でどんどん薄れていってしまうような気がします。そうあってはいけないから、国やEU負の遺産としてアウシュビッツを博物館として管理し、私たちは歴史を学び、ひとりひとりに考える機会を与えているのかなと思いました。

 

 

訪れる人々
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この写真には誰も写っていませんが、ちらほらと団体がいました。ポーランド人の高校生がガイドと共に回っていました。アウシュビッツユダヤ人が収容された場所として知られていますが、元々はポーランド政治犯や優秀な人(指導者になる人、先生など)も収容されていました。彼らはポーランドのために戦った人なので、ポーランドからしたら英雄です。なのでポーランド人にとっても大切な場所だそうです。もちろんガイドの内容も言語によって違います。中谷さんのガイドは日本人向けなので、細かい歴史よりももっとジェネラルな話が多かったように思います。

 

ドイツでは高校の卒業試験の歴史の問題はナチスやそのあたりのことしか出ないそうです。自分の国が過去にやった残酷な出来事に、真正面から向き合う機会を若い人たちは与えられるといった感じですかね。テキストを抱えて勉強しながら歩いていた高校生くらいの女の子を見かけました。ただ歴史を覚えるというよりは、何でこんな起こったのかとかもっと深いところが問題になるそうです。「ヒトラーが悪い」「ナチスが悪い」は答えとして不適切で、もっともっと深いところ、何でナチスが民主主義で選ばれたのか、何で誰も止めれなかったor止めようとしなかったのかとか、民主主義やポピュリズム大衆迎合主義)に関わるところまで踏み込まなければいけません。正確な答えはわからなくても(ないかもしれない)、歴史を学び、自分で考えるということに意味がありそうです。

こういう話を聞きながら、また今ここに書きながら、高校時代、歴史は暗記科目だーー!!って言いながら勉強したことを思い出します。なんでも教育のせいにするのはいけないと思いつつも、日本とヨーロッパの歴史教育の違いを感じました。弥生土器の種類や平安時代天皇の順番を覚えるよりももっとやることはありそうです。

 

ヨーロッパでは修学旅行先になることも多いそうです。日本人が広島や長崎、沖縄に修学旅行に行くのとおなじようなものですかね。年間200万人以上(日本人は3万人ほど)が訪れ、特に夏にはたくさんの人がきて、ゆっくりガイドをしてみることは難しいと中谷さんは言っていました。めちゃくちゃ寒いけど、ゆっくり見たい方は冬に行くことをお勧めします。

 

 

死の壁
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これは第10棟と第11棟の間にある「死の壁」です。奥に見えるグレーの壁です。ここは銃殺刑に使われた壁で、囚人はこの前に立たされ銃殺されました。いくつもの銃弾の痕が残っていて、お花が手向けられていました。

第11棟は中に入れて、人体実験のことや拷問のことが展示されています。今でもカルテはドイツ語で書かれているように、当時ドイツは医学の最前線をいっていました。その優秀な医師たちが人体実験をやっていたんです。命に関わるような実験に人を使うなんてダメに決まってるじゃんって、平々凡々な大学生の私ですらわかるようなことを世界トップクラスに優秀な人たちが行っていたんです。当時のナチスによる洗脳というか、ユダヤ人は敵だって国民にしみこませたというか、ナチスの力の強さを感じます。

 

 

第11棟の展示物
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収容所から労働場所まで行進させられる被収容者たちです。このような絵がいくつも残っています。


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初期の被収容者たちは写真や名前やつけられた番号がしっかりと残っています。見えにくいと思いますが、何人かの顔にはあざがあります。収容所の命令はドイツ語で出されます。ポーランド人はポーランド語を話すので、理解できない人も当然います。どうなったかは想像の通り、殴られたり、もので叩かれたり…。

 


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上の2枚の写真はどちらも被収容者の部屋です。上の写真の3段ベットには1台あたり2~4人が使っていたそうです。それに対し、下の写真の被収容者は広々とひとり1台のベットに机やタンスまであります。

 

繰り返しますが、どちらも被収容者の部屋です。SSは被収容者にはランクをつけて、被収容者同士で管理させることに成功しました。ポーランド人、ユダヤ人、同性愛者など、共通の敵であるナチスがいるにも関わらず、お互いに恨みあい、監視しあっていたのです。被収容者を管理する人にはいい部屋を与え、配給係までやらせました。当たり前ですが、自分の食べ物を多く確保します。配給係の中には太っていたものまでいたそうです。そういった人たちが厳しい環境を生き抜いていったわけです。この時代の様子を知るためには生存者の証言が必要ですが、彼らは被収容者でありながら半分は加害者なので、証言しづらかったそうです。家族がいる人は特に。

 

 

有刺鉄線
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収容所の周りは有刺鉄線で囲われています。しかも2重。夜中には電気が流れ脱走できないようになっています。

 

ヘス(初代所長)の家
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右にあるベージュぽい一軒家が見えますか?収容所から数十メートルのところ、この写真を撮ったすぐ後ろにはガス室があるところに、SS大佐であるルドルフ・ヘスが幼い子供を含めた家族で住んでいました。元々は現地のポーランド人のものでしたが、彼らから奪いヘスは住んでいて、戦後は元の持ち主に戻されたそうです。かなり衝撃でした。被収容者を酷使し、効率よく人を殺す方法を考えていた収容所と、家族と過ごすあったかい自宅が目と鼻の先にあり、毎日行き来したと考えると、同じ人には思えません。自分の子供と同じくらいの子供をガス室に送り込んで、何も思わなかったのでしょうか。そう思わせない社会や環境はどんなだったんでしょうか。

 

ヘスは1947年にアウシュビッツで絞首刑になりました。自分が多くの人を殺した場所で処刑されたのです。彼は悪いことをしたと思っていなかったようなので、1度も謝ることはなかったそうです。ここにもナチスの強さを見ることが出来ます。

 

これでアウシュビッツ第一収容所はおわりです。
3時間のガイドのうち2時間弱です。残りはアウシュビッツ第二収容所・ビルケナウに続きますが、思った以上に長くなってしまったので次にします。

 

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