どこかにある何かを探して。

旅と留学の記録と時々日記。

アウシュビッツ収容所を中谷さんのガイドで見てきた~現場編②~

前回と前々回に引き続き、現場編②です。

resa96.hatenablog.jp

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前回はアウシュビッツ第一収容所を見たところで終わりました。

そのあと約3キロ離れたアウシュビッツ第二収容所 ビルケナウまで、バスで向かいます。10分だか15分おきにでていて、無料で乗ることが出来ます。移動時間は中谷さんとガイド参加者のお兄さんとおしゃべりです。スウェーデンに留学中で~って話をしたら、スウェーデンにはユダヤ人を10万人以上救ったラウル・ワレンバークという外交官がいるから調べてみるといいかもねと言われました。ちなみにシンドラーのリストシンドラーが救ったユダヤ人が約1200人、杉原千畝が救ったのは約6000人です。

 

前回、日本人は年間3万人ほど訪れると書きました。その中には若い人もかなりいて、特にこれからの時期は学生の春休みなので、ガイドの定員30人がいっぱいになることもあるそうです。打算的ではあるけど、アウシュビッツに行ったって就活でも使えることがあるらしいよ~って言われました。絶賛就活中の私ですが、いまいち使い方はわかんないし、それが目的で来るのはどうかと思うけど、それほど重要な遺跡であることは間違いなさそうです。

 

さて!10分ほどバスに揺られるとビルケナウに到着です。

アウシュビッツの写真として教科書などで見るのは、前回書いた門とこの入り口ではないでしょうか。基本的には天気のいい夏の写真を使っているので、ピンとこない人は調べてみてください。見たことあると思います。

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これは収容所の中からみた景色です。ここが50万人以上のユダヤ人を乗せた列車の終点です。


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この小さな列車に70人ほどが詰め込まれて、遠いところだと何日もかけて終点であるビルケナウにやってきます。


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私の手書きのメモなので汚いのは許してください。門を入って、列車が止まっているところをランペ(降車場)と呼び、ここでユダヤ人は降ろされます。列車から続いてる小さい丸○はユダヤ人の列を表していて、その先にSS(ナチスの親衛隊)の医者がいます。その医者が新しく来たユダヤ人を”選別”します。ぱっと顔みて、「はい、右。左。」って働けそうな元気な人は収容し、そうじゃない人(子供や年寄り)はそのままガス室へ。とっても優秀なお医者さんが、送られてきた人たちに触れることなく、ただ顔色だけを見て、選別をしていったそうです。約8割の人がガス室に直行です。収容されたのはたった2割しかいませんでした。

 

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これがガス室へ向かう道のりです。前に見えるのはガイドの中谷さんです。

収容所の建物を横目にどんな思いで歩いていたんだろうって思いながら、歩きにくい雪の道を歩いていきます。


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これがガス室の跡です。ナチスは戦争に負けることがわかると証拠隠滅のためにガス室を爆破しましたが、跡は今でも残っています。雪が積もっていてしっかりは見えませんでしたが、形は分かります。前に書いたように、約8割の人はガス室に直行します。しかし、彼らにはガス室で殺すからついてこいなんて言うわけもなく、シャワーを浴びるシャワー室に行くと伝えます。ガス室には脱衣所があり、服をかけるハンガーまであります。そこで服を脱ぎ、髪をかられました。もちろんガス室に シャワーを浴びに行った 人たちがその服を着ることは2度とありませんでした。

 

ガス室で有名なアウシュビッツですが、できた当初からガス室はあったわけではありません。そもそもナチスユダヤ人を「殺す」「虐殺する」なんて言葉は使っていないのです。「ユダヤ人問題の最終的解決」として、ガス室を始動させたのです。ユダヤ人を劣性として、優性のみを残すための政策でした。なんでユダヤ人がターゲットになったのかなどは長くなるので割愛しますが、この辺は難しくていまだによくわかないので、もっと調べてみたいと思います。とにかく収容する場所が足りなくなったので、殺すしかなくなってしまいました。多い時で1日4000人がここにあったガス室で亡くなりました。

ガス室を使うようになった理由の1つには銃殺する側の精神面を考慮したというのもあるそうです。そのため、ここで働いていたのは収容されていたユダヤ人でした。遺体を運び出し、併設する焼却炉にいれる仕事をやっていたそうです。

 

ちょっと脱線しますが、私が書いたメモの中に汚水とかいた丸があるのに気づいたでしょうか。左のガス室の隣です。

ここでは何万人もの被収容者が生活しているので、生活排水がでます。その汚水を処理してから川に流していたそうです。今なら当たり前だし、自然のことを考えたら当然じゃんと思いますが、なんでガス室で大量に人を殺せる人が自然を気にしていたんでしょうかと中谷さんはおっしゃっていました。この汚水はユダヤ人が出したものだって言えば、そのまま流してもよさそうなのに、自然には配慮していたそうです。

ユダヤ人への恨みなのか、とにかく当時のナチス、SSの人としての感覚が今の私たちと全然違うことはわかります。

 


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レンガでできた収容所の建物。建物の真ん中には暖房がありました。その近くで寝れるのは、被収容者のなかでもいい地位にいるひとたちです。寒い時は-30度まで下がるので暖房がありますが、あっためるためではなく、死なない程度の気温にするためでした。


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こちらは木造の建物。二段ベットの1段に4~5人が詰め込まれました。真ん中にある石のテーブルみたいなものは暖房です。

木造の建物はなくなっているものが多かったのですが、それは暖房の薪木として使われたからだそうです。

 

これで中谷さんのガイドは終わりでした。

ここで起こった事実を淡々と話すというよりは、私たちに考えさせるような内容でした。ちょっと早口で、知識不足のせいかたまについていけなくなりそうなときもありましたが、濃い3時間でした。ナチスが悪いって一言で終わらせるのではなくて、ナチスを選んだドイツはどうなってこうなってしまったの?ってきっと答えは1つじゃないような、現代にも通じそうな話がたくさん聞けました。

 

今のドイツはナチスのことをしっかり学校で教えて、高校の卒業試験でここしか出さないからちゃんと勉強しろよってしっかり考えさせているのに対し、日本は加害者として朝鮮や台湾をどう教わって考えているのでしょうか。日本の教育が悪いって言い訳してないで、自分で学んでいかなきゃですね。

またナチスは民主主義で選ばれました。ポピュリズム大衆迎合主義)もかなり重要なワードです。多数派が勝って権力を手に入れ続けたら、どうなっていくんでしょうか。

 

私の専攻は政治学で、ゼミのテーマは東アジアの比較政治なので、朝鮮との歴史認識問題について触れたこともあるし、ポピュリズムについてのレポートも書いたことがありますが、思ったより身になってなくて落ち込みました。それに加えて、ヨーロッパについてはほぼ知識がないし考える機会もなかったので、今回をきっかけに学んでいこうと思いました。

政治学は将来役に立たないだろうな~と思いながら授業を受けていたけど(面白いとは思っていましたよ!)、ようやく役に立つ場所が分かった気がします。

歴史を学ぶ意味も感じることが出来ました。

簡単に言えば、どちらも今後同じような悲劇を起こさないようにするためなのかなと私は思います。

 

まだ消化しきれていない部分もたくさんあるけど、いったんおわり!

歴史を学びながら、今のニュースもしっかり追いかけていこうと改めて思いました!!

 

※ガイドの内容やアウシュビッツの案内書、ドキュメンタリーなどからど素人の私がこのブログを書いたので、もしかしたら間違っているかもしれません。間違いがあったら教えて下さい。